アイヌ文化が根付く北海道の魅力とは?アイヌを簡単に解説!
明治より以前の時代、北海道はアイヌ民族の世界・アイヌモシリだった。
その北海道の自然を知りつくし、豊かな精神世界を育んできたアイヌの文化を学ぼう。
今回はアイヌの歴史と基礎知識を紹介する。
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■アイヌの歴史
縄文時代には北海道にも日本本土にも縄文人が住み、生活を営んできた。
紀元前数百年頃、日本本土に大陸や朝鮮半島から異民族が大挙して渡来し、鉄器の使用や米作りを伝えたが、一方で寒い北海道には米作りは伝わらず、縄文時代そのままの生活が続いた。縄文時代に続く「続縄文時代」だ。
また、北海道オホーツク海沿岸には北のサハリン方面から移住した人々が、続縄文人とは異なる「オホーツク文化」を営んでいた。
クジラやトドなど、海の恵みを糧にし、熊を崇拝するのが特徴の文化である。
やがて日本本土が奈良時代になるころ、北海道は「擦文(さつもん)時代」に移る。
日本本土との交流が活発になり、本土から渡来したした布織の技術や鉄製の鍋などが行きわたった。
北海道の住民は外来の文化を受け入れながらも、縄文以来の伝統文化と組み合わせて昇華し、ここに「アイヌ文化」が成立する。
時代は12世紀、日本本土が鎌倉時代の頃である。
戦国時代になると渡来した和人の勢力が増し、江戸時代には北海道沿岸に和人の漁場が次々と設けられ、生産した海産物を日本本土へ移出していく。
アイヌは漁場で働かされ、伝染病の流行も相まって人口を減らしていった。
そして明治時代、北海道の本格的な開拓で森林は破壊され、アイヌは狩猟権、漁業権を奪われるなど苦難の道を歩むこととなる。
しかし、近年では新たな文化研究者も育成され、漫画などサブカルチャーの形でアイヌ文化が知られるなど、アイヌ社会は新たな形にあるともいえる。
■アイヌの生活
アイヌも農業をしていた
アイヌは狩猟民族のイメージが強いが、簡単な農業も行っていた。
川沿いの土地に所有権を示す標識を立てたうえ、鎌で刈りはらって開墾し、粟やヒエなどの雑穀に豆、カブ、江戸時代後期以降はジャガイモも栽培した。
ジャガイモは冬の寒さを生かしてフリーズドライ食品にも加工した。
コタンとは「村」の意味
アイヌは川の河口や川沿いなど、猟や交通に便利な場所にコタンと呼ばれる村を営んでいた。
住まいはチセと呼ばれる茅葺や笹葺の建築で、母屋以外に食料を納める倉庫、熊を飼うための檻などが立ち並んでいる。
家は基本的に一家族のみが住むため「嫁&姑」の問題は起こりにくかったという。
■アイヌの信仰
木幣と神の箸で願いを届ける
アイヌの儀式で欠かせない神具が、イナウとイクパスイ。
イナウは楊やミズキの枝を削って房状にしたもの。白木で作ったイナウは天界で銀に変わる。
イクパスイは彫刻のあるヘラ状の木片で、先端に酒をつけて祈ることで人間の言葉が正確に神に届くという、翻訳機能のある神具だ。
イオマンテは「おもてなし」
アイヌの信仰では、熊やタヌキのような獣は「神が人間のために肉と毛皮を土産に持ち、この世に現れた姿」と考えられていた。
有名な儀式・イオマンテ(熊送り)は、この世に現れた熊の神を村に留め置いて人間界の楽しさを堪能していただいた上、神の国に送り返す行事である。
■アイヌの民族衣装
交易で得た品物で身を飾る
アイヌ男性の盛装は、頭にサパンペ(冠)を被り、肩からエムシ(宝刀)を下げ、交易で得た陣羽織を着る。
女性は飾り結びをした鉢巻か刺繍模様のある鉢巻を締め、首にはガラス玉を貫いたタマサイ(ネックレス)を下げる。
金属やガラスは、みな中国や和人との交易で手に入れた。
木の皮の繊維で織りあげた着物
アイヌの民族衣装・アットゥシは、ニレ科の広葉樹であるオヒョウの樹皮から作られる。
まず春先にオヒョウの皮を剥いで集め、内側の白い部分を発酵させてほぐす。繊維を糸に紡ぎ、布に織り上げる。
アットゥシは頑丈で水に強いため、和人漁師の作業衣としても好まれた。
■アイヌ料理
主食は鍋料理、お粥に団子に肉タタキ
アイヌの料理には、肉や魚、山菜の汁物「オハウ」。
雑穀の薄い粥「サヨ」、山菜や芋を茹でて脂で和えた「ラタシケプ」、穀物粉の団子「シト」、肉や魚のアラのタタキ「チタタプ」がある。
狩猟民族なので、食生活の中心は肉や魚。
穀物、とりわけ米の飯や団子は大変なごちそうだった。
旨みたっぷりの汁杓子を盗む奴がいた?
アイヌの食生活では、粥は「口直し」として食後にすするもの。
だから汁物の脂気が粥に混じらないよう、汁物と粥は使う鍋から食器、杓子まで厳重に分けられた。
汁用の杓子には脂気が染み込んでいるため、肉食動物に盗まれることもあった。
アイヌ語ではテンをカスプキラ(杓子どろぼう)と呼ぶ。
出典/ガルヴィ2018年10月号
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